六甲山系の東端、山並みから独立したお椀型の山が甲山である。
その山麓が甲陽園の地で、「園」とつく地名から想像できるように、かつてはレジャーランドがあった。
その後、別荘地、高級住宅地として開発されてきた。
この甲陽園の地中に終戦間際に地下壕が掘られていた。
目的は二つ。ひとつは本土決戦体制のもとで、大阪海軍警備府が疎開するための軍用地下施設にするため。
ただし、完成前に終戦を迎え、実用には供されなかったと伝えられる。
もうひとつは、この甲陽園が見下ろす鳴尾の海岸地帯で川西航空機が製造していた局地戦闘機「紫電改」の地下工場にするため。
紫電改は劣勢の日本軍においてめざましい戦果を挙げ、必然的にその生産工場は米軍の攻撃目標になっていたからである。
地下壕建設に関わっては当時から秘密にされ、もちろん文書等は処分され、不明な点は多い。
だが、多くの朝鮮出身、台湾出身の若者が日本人とともに働かされたことが証言によって明らかになっている。
保存を求める市民運動があり、調査によって、一号から七号までの壕が確認された。
一部は整備されたが、その後工事は進んでいない。
<埋め戻された5号壕入り口>
かつては見学もできたが、現在は閉ざされたままだ。
使用できる入り口が民家の敷地の狭小な通路を抜けないと行けないところで、その民家の協力なしには使えないためだ。
内部の壁面に「朝鮮國獨立」「緑の春」などの文字が残る唯一の地下壕であり、隣国との関わり、戦争の姿を学べる格好の平和学習の場であるが、現在は使用できない。
現地には看板も説明板もなく、離れた公園に石碑が一つ立つのみである。
記憶の風化とともにこのまま忘れ去られることがないようにしていく必要がある。